アートとの触れ合いを身近に!!

飯田・下伊那(長野県)での展覧会の模様やアートに触れた感想等を犬塚画廊から発信していきます。
非言葉のコミュニケーション…その感じ方は
人それぞれで、想像してみる事が大事だと思います。アートに触れて感性UP目指しませんか??
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西村誠英との話し合い会
JUGEMテーマ:美術鑑賞
 
1週間前の1/9(土)19:00〜 アートハウスで『話し合い』会が催された

会場に着く前は、ざっくばらんな話し合いかなぁと思いながら
難しい西村さんの文章にかかれている内容が少しでも理解出来たらばと参加した。
参加者は10名



行ってみての感想は、哲学的な話でどこまで再現できるか分からないが
必死に考えてなんとなく合点のいく思考になると、うぬぼれの自信が芽生え体中が生き生きとしてくるような感覚になってくる。
また、文章では分かり辛いが例えての話を一生懸命言葉を搾り出すように話す西村さんの
意気込みが伝わってきて、こちらも何とか自分なりの導きを見出そうと言う気持ちにさせられる。
言葉にするのが難しい真理や感覚を、何通りもの違った視点から言い表そうとしていた。



私がまとめられない深い事を話していたことをご承知下さい。また本質が違った意味にあるかもしれません。ご了承下さい。

まず、「私達の知・感・蘇生構造は、時代人間界の「世界」概念に閉じられてきた。
     その構造は、受感身体、演者身体、バーチャル身体をもって捉えられる」(レジュメより)

  ここで言う、「世界」概念と言うのは価値観や状態のようなその時々によって変化する事柄を指す。そこから、感受身体(観る者)、演者身体(作者)はその不確かな中で互いに認識せざろう得ない事になる。

その事に危機感を抱きつつ、本来は作品と観る者との〔1対1〕の関係で、そこに「世界」概念と言う
世間体や観る者を取り巻く環境が介在するべきではないのでは?と考える。

その危機感とは、本来人間が持ち合わせている知、感、蘇生構造が充分に発揮されずに、人工的な世界観に抑えられてしまい
「現代の精神のキキは、文化の崩壊のキキではなく、人間文化が造りだしたもの、人・在の崩壊のキキの現場である」(レジュメより)と
人の存在自体の危機をももたらすと説いている。

簡単に言うと、価値観に縛られ本質を見抜けない知、感だと人類の危機に陥ると言うような内容。


そこで、
「ARTの現場で、自らの在身体を解明することがこの現代問われている。それは、自らの生命・在者の唯一不二なる観化身体を開明すること
 →それは、自らの「生きる」野生なる生命身体を開明すること
 →それは、人・在の「在る」ことの属性なる、自然(ジネン)なる在の開明である 」(レジュメより抜粋)

とここから、みかんをただそのものとして捉える。果物とかみずみずしい、甘いと言った価値観でなく
ただ物体として捉えるべきだと、哲学の領域へと入っていく

参考文献として、西田幾多郎著の「純粋経験としての身体の場」、マルティン・ブーバー著の「我・汝」



ここから、西村さんのヒストリーとこの発想にたどりついたきっかけの話になっていき

・縄文土器との出会い・・・・他の人工物は何かを語りかけてくるが、この土器は何も語らなかった。
                 意識・目的の持たない人工物で観ようとするとソッポをむかれるような感
                 覚だった。
・ヒロシマの死・・・・死体をも消し去った現場にここから現代の有在のキキが始まったのではない
            か?
・飯田美術研究所設立
・「有限物界宣言」(1992)・・・これまでの思惟構造を破壊する決意文を策定
                   夢希望の破壊、社会的規範コミュニティーの破壊、アートの知の破壊
                   価値観やアート行為の破壊 等々
・「現代廃物」(1993)・・・現代の廃物は自然物を人工化した物を人間界において廃物にされた物
                であり、それ自身は自然体であること。廃物から現代の野生である
                「大地の刺」を見た。
・「有感としての智観構造」(2001)・・・5感による体験は経験を築き上げる。この経験智はその体験 
                        によるものであり、体験をはみだすことはない関係にある
・「苫前の気韻の智観構造」(2004)・・・死者との出会い体験により、我々の生者、死者、存在体の
                        認識は現象や事象によっていて、死体そのもののから読み
                        取っている訳ではない。
                        自分の身体に持っている存立、自覚、精神、身体は密なる
                        在の構造にあり、それにより他者としての異在観を創造できる

・「現代のARTする身体解明」(2009年1月)
    ・現代のARTする身体は、造形ARTからの離脱
    ・ARTする身体は、感受身体になく、ART跡体(作品)との[1と1]の出会い体験にある
    ・ART跡体は、地上に出現した自然(ジゼン)体[大地の刺]である
    ・ARTする身体は、人・在の生命在〈所〉にあり、自らの唯一不二なる自覚精神を開く現場で
     あるーー人・在の属性にある

  地上にある(もの)は(物:鑑賞物)ではない。(物)は常に地上の他者との関係(環境との関係)の
  もとに置かれていて、ここに(物)自体としての実なる(もの)を観ることは出来ない。
  それを観るためには、関係を断絶、切断しなければならない。その断絶により〔1と1〕の出会い
  現場に(もの)が立つことが出来る。その時、観るものは今、ここと言う一人称の立場で向かい合い
  そこから、自覚精神を蘇生できることに繋がる。

「ここに、ARTする行為身体、ARTする観化身体の開明が、まさに人・在の属性にあることが明らかになる。−−時代人間文化からの離脱
現代のARTする身体は、人工化なる人間としての個人の崩壊を持って蘇生せる。〈廃物人〉の誕生、現代の自然〈ジゼン〉在・野生〔大地の刺〕の自覚精神の誕生にある。」

最後に、新日曜美術館で取り上げられた画家ロスコの作品の前で涙する若者を取り上げ
「意味や目的を越えた領域にARTが展開されるべきではないのか?」と言う言葉が
何となく伝えたいことがしっくりと解釈できた様な気がした。。
成果主義や勝ち負けの意識が強い時代に、それを感じさせない。それを取っ払えるようにいざなってくれる作品。そう言った要素が、これからの現代ARTには欠かせないのかもしれない。。。



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